幼少期にどんなことされてましたか?とご質問いただくこともありましたので、つらつらと書いてみたいと思います。
やっていなことは「くもん(KUMON|公文式)」「幼児教育」「早期教育」など。お勉強系は一切やっていません。
何をやっていたのかというと、一つは「読み聞かせ」です。
思い返すと想像以上に適当な読み聞かせをやっておりお恥ずかしい限りですが、継続約10年、↓こんなかんじでありました。
何かご参考になれば幸いです。
約束してしまった読み聞かせ
子どもが小さい時(1歳ぐらい)私が大事にしていたことは生活リズムでした。取り憑かれた様に寝る時間を守っていました。
しかし「なぜ寝ないといけないのか」納得のいかない1歳児は寝てくれません。
ここで頭を絞って提案。 「本を読んだら寝よっか?」 と。
一瞬考えた息子は、機嫌良く 「うん!」 と。
しめしめ、これで寝てくれるぞ、とほくそ笑んでいたのですが、その笑みもむなしくなっていくことをまだ気づいていない第一日目。
こうして「自分で読む」宣言がでるまで、約10年間続ける羽目になったのです。(娘の期間を入れて)
何回も同じ本。地獄の様な読み聞かせ
読み聞かせは、寝る前だけではなく、昼間も「この本読んで」とやってきます。
まだ小さいので、物語の本ではありません。単純に車の走る音だけ。何ページも車のエンジン音を読み続けなければならないのです。
お気に入りの本だったので、最初はいろんな読み方をして楽しんでいましたが、それを上回るしつこさが息子にはありました。何回も「もう一回読んで」と。
私の声のエンジン音レパートリーなんてあっという間になくなり、やらされ感全開でイヤイヤ読んでいても、それでもしつこく読む様に言ってきます。何が楽しいのか、さっぱりわかりません。
それが数日続いた時、我慢の限界が来てしまいました。私は絵本を隠してしまったのです。
「ない!車の本がない!」と探しまくる息子。その姿を横目に「えー、どこに行ったんだろうね〜」と言いながら違う本をすすめる私。
この話を友人にすると、非道な母だと非難されます。
その通りです。その通りなんですけれども、それぐらい私の心に余裕がなかったということで、お許しください。
昼間、こんなに読んでいても、夜には寝る前の本を読んでから寝ていました。
寝る時間が迫ってるのに読み聞かせ
寝る時間に厳格な私は、どうしても9時を回ることが許せませんでした。(当時は8時だったかも)
しかし、子どもにとっては知ったこっちゃないようで。どんなことがあろうと寝る前は「本を読む」ことを余儀なくされるのです。今思い出しても心がぎゅっとなります。
さらに「もう一冊!」と加算されることも。読んであげたい、でも時間が、でもでもでもでも・・・・の結果、読んでから寝ることになるのです。(たまに喧嘩していましたけど。)
そこで私は禁断の読み飛ばしをやってのけます。
息子が3、4歳ぐらいだったと思うのですが、本当に時間がない時は、ちょっと文章を飛ばして読むことがありました。
最初は気づかれないぐらいの1、2行。味を占めて3、4行、とかやってると、やっぱり気づくんですよね。
「これ読んでない!」と。
「あー、ほんとほんと、読んでなかったねー、へへへ」
お母さんのうっかり!という感じで凌いでいましたが、2、3、回続くともうダメですね。怪しまれて怒られました。反省。それからはちゃんと読みました。
それもこれも「寝る時間・睡眠時間」のプライオリティが私の中でいかに高かったかを物語っているエピソードだと認識していただければ幸いです。
図鑑も読み聞かせするの?
ある日、読む本を探していた息子。
満面の笑みで図鑑を持ってきました。寝る前に読むには量が半端ありませんね。何かしてやったりという顔をしていた気もしますが、気のせいかもしれません。
全部は無理じゃない?とりあえず、2ページね、と。
2ページでいいが、隅々まで読むことを強要されました。なので隅々まで読んだ覚えがあります。
図鑑の日はページによっては早く終わることもありますが、そんな日は少なく。
文字数が多いのと、私が読んでいても楽しくなかったので、「図鑑だけはやめて」とお願いしていた気がします。
どんどん時間が長くなる、読み聞かせ
息子は年齢が進むと絵本が児童書になり長めの物語に。そういう時は区切りのいいところまでを読みました。
さらに娘も一冊持ってくる様になったので、毎回2冊です。
ぱっと読んで寝かせることなどできず、もう寝る時間を考えるのはやめました。夜の9時は回っても、10時を回ることはなかったからです。
それで、よし、と自分に言い聞かせつつ。
オリジナルを求めるようになる
そうしてるうちに、布団に入ってからも子どもたちに「なんかお話して」と言われる様になりました。
それで寝てくれるなら、と民話などに似せつつ話してはみるものの、素人がすぐ作れるわけがなく。
試行錯誤しながら何か教育的なものと絡めようとして失敗してみたり、特に面白くもない話をたくさんした気がします。自分でも覚えていないぐらいです。
一番悔やんでいることは「いたずら好きのお猿さんがいました」の一文で盛り上がったのに、その続きがしょぼくって二人のテンションがガッと瞬時に下がったこと。
なんにも考え付かなかったのです。あの時、どんな話の展開をしたら良かったのか、今でも考えたりしています。
また、インターナショナルスクールへ送迎する車中でも「なんかお話しして」とオリジナルのお話を求められ、運転しながら創作する経験もさせてもらいました。
そうして作ったお話は、面白かったものはよく覚えていて、「絵はなくても話し言葉だけで」想像していたのだなぁ、と今になっていいことをしていたな、なんて思います。
やってよかった読み聞かせ。身についた力とは
こんないい加減な読み聞かせでも効果はあったのだろうか??
どう読み返しても「読み聞かせ」というよりも、子どもによって「読まされていた」というべき10年間ではないか。
そして子どもたちも飽きもせず10年もの間よく続いたものです。
今回、当時を思い出しながら書いてみて分かったことがあります。
そもそも、どうしてそんなに本を読んで欲しがったのか?
それは家(リビング)にある「最も刺激的な娯楽」が「絵本(本)」だったからでしょう。
テレビをみる習慣が無く(テレビがリビングにない)、コンピューターゲームもありませんでした。
当時の私はずっとガラケーでしたのでスマホで動画を見ることもありません。
あるのは絵本とブロックと紙とペン類だけ。
環境が人を作るというのは本当にその通りなのかもしれません。
そのような中で子どもたちが主体となって毎日の読み聞かせや読書を楽しんでいた、ということなんですね。
結果的に「聞く、聴く、読む、想像する、書く、描く、作る、創る」などの能力がコツコツ自然と育っていったように思います。
その裏付けのエピソードとして、確か息子が小学2年生ぐらいの時に言ったことは「本は挿絵がない方が好き」と。
それは、自分が想像した世界がすでに頭の中にあるので挿絵があると邪魔になる、ということらしいのです。(※そこを想像し創り上げるのが楽しいそうです。)
また、4年生で初めて行った塾(週一回のクラス)では、先生より「誰よりもまっさらで来て、誰よりも理解して帰っていく。」と言われていました。
娘の場合は音楽の方にそういった傾向が現れました。
ピアノで曲を弾くと、メロディーラインや和音の構成から自然とイメージが膨らみ、それが音色と表現になっているようです。
従事している先生やコンクールの審査員の先生の講評でも「音楽性が非常に高い」と言われます。(※反面、感覚派なので理論は弱いです)
耳コピ、即興演奏や作曲なども大好きで、楽しんで弾いています。
まとめ
ということで、再度になりますが、わかったことは、
- 「読み聞かせしていました」ではなくて「読み聞かせさせられてました」だったこと。
- 子どもたちが絵本や本を読んで欲しがったのは、それしか娯楽がなかったこと。
- 身についた能力として挙げるならば、子どもたちが主体となって楽しんだことにより、「聞く力」「想像力」「理解力」が身についた、ということ。
ということでしょうか。
読み聞かせ以外にも、幼少期にどんな風に何をしていたのか、また書く機会があれば書いてみたいと思います。
長々と読んでいただきありがとうございました。
おしまい