アクティブラーニング型授業の増加と逆行する形で学生は受け身になっている
さて、本日2022/08/23の日経新聞に、「アクティブラーニング型授業の増加と逆行する形で学生は受け身になっている」という衝撃的?予想通り?の記事が掲載されました。
前回私が書いたコラム「人口減により、いよいよ偏差値時代が終幕」とも関係していますので、少し補足したいと思います。
まずは記事の抜粋をお読みください。
学びに「受け身」増える
- 新型コロナウィルス禍は大学教育に大きなインパクトを与えた。この間の遠隔授業の経験や各種調査データをもとに、ポストコロナの大学教育をデザインし直す動きが加速している。
- 遠隔授業の導入で課題を出す授業の割合が増え、学生からも「課題が多い」と言う声が多く聞かれた。 授業外学習が増えると予想していたが、結果はほとんど変わらなかった。
- このことは学生の学びに対する考え方とも関係している。「あまり興味がなくても単位を楽に取れる授業が良い」と考える学生は08年の49%が63%に増加。「大学での学習の方法は、大学の授業で指導を受けるのが良い」と思う学生は同じく39%から57%に増えた。 アクティブラーニング型授業の増加と逆行する形で学生は受け身になっている。
- 理由としてはアクティブラーニングの成功に不可欠な明確な目的や問い、教員からのフィードバックなどが十分に実施されていないと言う教員側の要因が考えられる。高校までに主体的に学ぶ姿勢が身に付いていないことや単位の習得が目的化していること、さらには将来不安による早期からの就職準備など学生側の要因もあるかもしれない。
- いずれにしても何のために学ぶのか、大学で学ぶとはどういうことなのかと言う、本質的な問題を私たちは突きつけられている。
- 学習習慣が未確立で、必ずしも明確な目的意識なく入学し、授業以外にも部活動・サークル、アルバイトなど様々な経験を干している多くの学生にとって、1人で画面と向き合い学び続ける事は相当困難だ。
- 大学とはどのような場所であり、どうあるべきなのか。コロナ禍は私たちに重要な気づきをもたらしてくれた。大学のみならず小中高、ひいては社会全体で共有・解決すべき課題である。
日本経済新聞(関西大学教授 山田剛史)より引用
内発性どう育む 中高も再検討を
今回の調査結果を見ると 高校時代にグループワークや討議に積極的に参加したり、学習成果を発表したりした学生は確実に増えている。しかし、高校3年生のときの授業外学習時間は増えていない。 詳しい分析が必要だが、それらの活動は生徒にとって「やらされる」もの、「先生のお膳立てがあればやる」ものにとどまっているのかもしれない。内発的な意欲や向学心をどう育むか。中学・高校の授業内容から考え直す必要がある。
日本経済新聞(編集委員 中丸亮夫)より引用
新型コロナウイルス(※一種の外圧とも解釈できる)によって、学習環境は激変しました。
大学講義において、単にビデオ講義を流すだけではオンライン授業が成立せず、理想に従いアクティブラーニング形式の授業を導入したものの、小・中・高と「学習とは教えてもらうものである。(受動的が当然)」と刷り込まれている生徒たちにとってアクティブに(能動的に)「課題」に向き合うことは能力的にも精神的にも難しく感じ、戸惑っているんだと思われます。
「授業形式」を変えるだけでは「意識(内発的な意欲や向学心)」の変化につながらない、ということは容易に想像がつきます。記事にもあるように、高校時代にグループワークや討議、学習成果を発表したりといったアクティブラーニングも経験してはいるのですが、ここでも「やらされるもの」でしかないということなのでしょう。
中学高校の授業を見直すだけではなく、これは学習習慣が決まる小学校まで遡るべきだと私は考えていますし、もっと言えば就学前の段階で感性や好奇心といった内発的な意欲の土台となるものを育んでおく必要性を強く感じています。
そして、声を大にして言いたいのは、そういった『感性、好奇心、意欲』など、目に目ないものに対する大人の感度、認識、理解を高めるべき。教育の目的として最優先に位置付けるべきだということです。
どうしても偏差値、点数、スキルなど、大人が評価し易いものに頼り、大人が楽をし、大人が不安を解消しようとしているように思えます。育てる意識よりも授業や評価の効率を最優先に設計実施されているように思えます。(※一教師の問題ではなく、教育システム、社会の問題。)
こういったことが続く(大人が変わらない)のであれば、この先も決して「本当の意味で変わること」は期待できないのではないかと思います。
フランス発の学費完全無料のエンジニア養成期間「42」
フランス発の学費完全無料のエンジニア養成期間「42(フォーティーツー)」をご存知ででしょうか?現在は東京にも進出しています。
そして、ここで注目して頂きたいのは、エンジニア(プログラマー)養成機関にも関わらず、入学試験で問われるのは「プログラミングスキル」ではないということ。
コンセプトムービーをご覧いただくとイメージが湧き易いと思いますが、問われるのは「没頭できる力、意欲・向学心、論理力や吸収力」という目に見えない要素なのです。
もちろん、プログラミングスキルがあるに越したことはありませんが、そこは入学後に学べる(教わるのではなく、身につける環境がある)のです。
規模は違いますが、私も新卒入社した会社で良く似たITエンジニア養成事業を企画、運営、講師、カウンセラー…etc 全てを任されておりましたので、このハングリーで向学心しかない「一種異様な熱気(情熱)」は分かります。ここには競争があるはずですが、互いが互いを尊重し、助け合い、還元する精神も高いレベルで備わっています。
「学習、学びってこうあるべきだよな。(教わるのではなく、内発的なもの)」と強く思うようになった原体験の一つです。
42(フォーティーツー)が全ての理想形とまでは言いませんが、今後情報が溢れる社会で生きて行くとはどういうものであるかの、一つの指針になるのではないでしょうか。
もうとっくに、こういう時代なのですが、日本の教育界は実社会から孤立し過ぎているように感じてなりません…。
子どもたちの教育において、横並びの意識・前例主義といった「常識」に染まっていると、親としての「安心感」はあるかもしれませんが、問題を先送りにしているだけだと気づかねばなりません。
さいごに
安易に決め付けたくはないのですが、近頃の子どもたちを観察していると、知識が増えた反面、確かに好奇心や知恵が減ったように感じます。
これは子どもたちが悪いわけではなく、インターネットを中心として情報が溢れに溢れる「情報過多時代」に生きる宿命と言いますか、お節介にも疑問を持つ前に「向こうから」知識やノウハウといった「情報」をどんどんインプットしてくるのですから仕方ありません。
退屈で暇があるかつ、ぱっと手に入る楽しいことが少ないからこそ、仕方なく遊びを考案したり、友達を誘ったり、計画を練ったり…本を読んだり、絵を描いたり、スポーツしたり…そういった側面があった訳です。その遊びの過程で好奇心が膨らみ、知恵が自然と身についていった訳です。
情報過多・娯楽過多の現代では、TVゲームやYoutubeなど、暇を埋める手軽な娯楽があるので、そちらに流れる子が多く、全てに対する感度が鈍くなっていくのも仕方ありません。
子どもたちは元来、旺盛な好奇心があり、自分自身で知識や知恵を高めて行く能力を持っています。
目先に走らず、世間に流されず、形式で満足せず、子どもたち自身が順序良く自然に成長できる教育環境とサポートを与えてあげて欲しいと願っています。