偏差値時代の終幕について、いよいよ日本経済新聞の一面に掲載されましたね。(教育岩盤:漂流する入試①〜⑤)
感じたことを少し掘り下げて書いてみたいと思います。
入試が変わらざるを得ない理由
まずは記事の抜粋をご一読ください。
漂流する入試① 偏差値時代 終幕の足音 大学「推薦・総合型」が過半に 入学後の指導 重み増す(2022/8/15)
新年を待たずに合格を決める「年内入試」が主流になり、受験生の3分の2が第1志望の大学に進む。受験地獄と言われた入試環境が18歳人口減少で激減し、偏差値で大学が秩序化される時代が終わろうとしている。人材育成の新たな道筋が見えぬまま漂流する入試と変化を阻む岩盤の実態を追う。
68%第1志望へ
- 明治維新や敗戦後の「欧米に追いつけ追い越せ」だった時代は、必ずある正解に早く到達できる能力を競わせる一般入試が有効だった。
- だが日本社会が成熟し、欧米のお手本に頼れない時代には、正解があるかどうかも分からない問題に取り組む力が重要になり、思考力や学習への意欲を多面的に評価する入試への転換が求められるようになった。
- 「総合型の受験生が増えるにつれて丁寧な選考ができなくなり、学力不足の学生が増えた」と明かす。〜問われるのは入学後の教育だ。〜「社会や企業は求める人材像を明確に示し、大学は厳しい出口管理で学生を鍛えなければ日本の成長はない」
どのように変化するかの一例を書いてみると、
- 人口が減り、誰でも希望の大学に入学することができるようになりつつある。
- 大学入学には(偏差値ではない)専門分野への学習動機とこれまでの活動の裏付けで選考されるようになる。
- 入学後の勉強は専門的で高度であり、これまでの履修主義から修得主義に変化するので欧米並みに卒業するのは難しくなる。
- 学歴=大企業への就職=人生の成功 というモデルは崩壊し、どう生きたいのか、社会にどう貢献するのかが求められる。
このように状況なることでしょう。
これまとは180度違うと言っても良いほどの大きな変化(パラダイムシフト)ですね。
続いての記事です。
漂流する入試② 一貫校強く「大器晩成」不利(2022/8/16)
日本のエリート選抜は筆記中心の画一的な試験が中心だった。しかし社会のデジタル化が急速に進む21世紀は、柔軟な発想で新たなイノベーションを生み出せる「知」の力が国力を左右する時代になっている。幼少期から塾通い、ひたすら回答スキルを磨き上げた受験エリートで今後も通用するのか。懸念する声は多いのに難関大学の入試は旧態依然だ。受験生の意識も変わらない。
外圧で変わるか
- 変化の兆しはある。国内のしがらみを超越し時代のニーズにも敏感な海外大学に、日本の高校から直接進学する生徒が目立ってきたことだ。「偏差値の高低ではなく、何を学びたいのかを最優先する生徒が多い」と高際伊都子校長(渋谷教育学園渋谷中高)。
- 明治維新や戦後改革など日本の転換点には常に外圧の存在があった。難関大の入試を変えるのも外圧なのかもしれない。
このように積極的に変革できないのが日本の特徴ですが、「外圧」や「人口減」という避けられない事象によって、いよいよ「入試のあり方」が変わらざるを得なくなってきたということですね。
「入学のための勉強」から「入学後に役立つ勉強」にシフト
上記2つの記事を総合すると、大学進学を目指す子どもたちには「入学のための勉強(一問一答の回答力)」ではなく「入学後に役立つ勉強(思考力、意欲、主体性)」を目的とした教育を実施するように、大人たちが教育環境や教育方法を大きく変化させなければならない状況に来ている。また、そのように意識をガラッと刷新・変革する必要があるということでしょう。
一方、「今までの教育ではダメで変わらなくてはいけないと頭では分かっているけれど、何をどう変えて行けば良いのかが分からなくて、とりあえずこれまでの教育に乗っかってしまっている…。」という方々が多数だというのが私の率直な感想です。
それもそのはず。
学習指導要領は「生きる力、その先へ」というように改定され、学校教育も変化の兆しを見せてはいますが、まだまだ不十分な状況であることは間違いありません。
一方、漂流する入試③でも書かれていましたが(※抜粋は割愛)、進学塾においても偏差値時代に合わせた詰め込み暗記学習が主流のままであり、ポスト偏差値の総合型(AO後継)入試においても「受験準備(暗記・対策)」が行われているという「皮肉な状況」に陥っています。
大人の都合ばかりで、未来を生きる「子どもたちの為の教育」が見えない、今の教育に「取って代わるもの(教育)」が見えないのです。
どのような幼少期教育に変えていくべきなのか?
それでは、これからの子どもたちに必要な教育とはどんなものなのか、それを整理して考えてみましょう。
上記①の記事、以下の部分に注目します。
- 明治維新や敗戦後の「欧米に追いつけ追い越せ」だった時代は、必ずある正解に早く到達できる能力を競わせる一般入試が有効だった。
- だが日本社会が成熟し、欧米のお手本に頼れない時代には、正解があるかどうかも分からない問題に取り組む力が重要になり、思考力や学習への意欲を多面的に評価する入試への転換が求められるようになった。
端的ではありますが、ここに全て書かれていますね。
間違いなく、「正解があるかどうかも分からない問題に取り組む力が重要になり、思考力や学習への意欲」が求められる時代になるので
- 「なぜだろう?」「どうしてだろう?」と自分自身で考えさせていく教育(思考力)
- 考え抜き、理解に辿り着く努力の過程が楽しいと思える教育(意欲)
これからはこのようなことを学ぶ機会を作り、粘り強くサポートする教育に変えていくべきでしょう。
これまで主流であった先取り教育、知識の詰め込み・暗記偏重の教育は戦後のような正解のある時代に合わせた教育だったのですから。
【歴史に学ぶ】
日本のバブル期にあれだけ強かった電機産業が衰退した経緯を振り返ってみましょう。
- 欧米をお手本(正解)にし、真似して追いかければ良かった。(※品質やコストの改善が有効)
- 追いつき先頭に立てば、正解(お手本)がなく、自ら考え切り拓いていかねばならないようになった。(※成功体験を引きずり変化できない)
- 今度は追いかけられる立場になり、打開策が見出せなかった。(※自国より安い労働力や市場規模に勝つのは容易でない)
これらのことは日本だけでなくイギリスやアメリカなどの欧米の先進国も歩んだ道であり、成功したものが考え続け変化し続けることが如何に難しいことなのかが分かるのではないでしょうか。
今はまさに成熟国に必ず訪れる試練の時(変わるべき時)なんだと思います。
自分の進むべき道を、自分で決められる子どもたち
社会が大きく変化していく中、子どもたち自身が将来何をやりたいと思うのかは予測できません。
しかしながら、社会が成熟するにつれ「金銭的・物質的な欲求」から「尊敬や自己実現の欲求」へと変化すると言われており、確かに近頃の若い子たちと接していると「社会貢献への意識」が非常に高いと実感します。
ただ、社会貢献といっても多種多様であり、どの分野に興味が湧くのかは人それぞれですが、大学進学ではより専門的な分野を目指すことになるはずです。
成熟国の先輩である欧米では目的を持って大学(高等教育)へ進学するのが大前提なので、大学での専攻と違った分野に就職することはほぼ不可能です。
日本でも今後はおそらくそうなって行くと思われます。(※これまでの日本とは大きく違ってくる。)
高校生までの間に学力向上だけでなく、広く社会を良く知り、自分の目指したい分野を見つけ出すことが求められるのです。(※偏差値で選ぶ方が余程楽ではあります。)
これはつまり、「知る力、選択する力、判断する力」が不可欠だということ。
現代は情報過多の時代です。ここを自分の芯をもって取捨選択し、判断して生きていくのは大変なはずです。昔と違ってこの先は正解のレールが無いのですから。
幼少期から受け身(講義形式)で正解を与えられる(暗記させられる)学習を続けてしまっては、どんどん「知る力、選択する力、判断する力」から遠ざかってしまいます。
教育先進国と言われるフィンランドや北欧各国のように、幼少期から
- 自分で感じたことを言葉にさせる(※唯一の正解はない)
- 目の前のことを「なぜ」「どうして」掘り下げて調べ、考え、理解させる(※唯一の正解はない)
- 自分のことは自分で決めさせる(※唯一の正解はない)
こういった理念を徹底し、コツコツと教育(サポート)してあげることで「知る力、選択する力、判断する力」が徐々に身に付き、進みたい分野を自分でみつけ、大学進学後のレベルの高い学習にもつながっていくのです。
幼少期には子どもたちが将来何にでもなれるよう、可能性を広げてあげる教育をすべきだと私は強く思っています。